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津軽三味線 偉人列伝〜津軽三味線の神様 その2


前回に続きまして、偉人列伝は白川軍八郎のお話しの続きです。
もう少し師について、その生涯と、音色や奏法について触れてみます。


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師は独自の奏法をどうやって編み出したのでしょうか。

幼児期に失明し、仁太坊と云う坊様(ボサマ)から叩き三味線を習い、僅か3年で師匠の腕を凌いたそうです。その上、叩きでは無く弾き三味線奏法の元祖、長作坊(ちょうさくぼう)の長瀞手(ながどろて)や、さらには音澄み(ねずみ)の美しい音色を弾き出した梅田豐月の奏法も独学でマスターして独自に進化して行きます。

色々な弾き方をミックスさせて、仁太坊の教えの通りに人真似では無いオリジナルの三味線奏法を研究して作るわけですね。

その緩急自在の奏法は、民謡の一座、巡業団の中での演奏で鍛えられ、マイクの無い時代ですので叩いて弾いたり、時には澄むように弾いたり、連続ワザまでも弾き出します。

大正から昭和にかけて巡業団の芸人の一員として旅から旅へと北海道を回ります。
当時の北海道は鰊景気で湧き、ヤン衆(漁師)達を目当てに東北からから巡業団、芸人達、坊様達などがやってきます。

さらには樺太(サハリン)や千島列島までも足を伸ばして行きます。
現地は青森からの出稼ぎ労働者が多かったと云われていますので、青森の民謡が大いに懐かしがられて受け入れたに違いありません。さらには聴いたことの無い斬新な三味線の伴奏です。

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楽屋では芸人仲間と花札博打もせず、お酒は1日4合瓶1本と決め、好物は鍋物だったそうです。

練習と研究熱心。鼈甲の撥より木の撥を好んで使い、いつも手入れをして、三味線の棹は細めの中棹を使っていたそうです。

なんてストイックなお方でしょうか。
運指スピードの早さの難しさは神業。現代奏法には見られない奏法不明な点も幾つかあります。
ゆっくりと再生してみると、聴こえなかった音まで聴こえてきたりします...恐るべし。
音色も独特で、現代の津軽三味線とは違い、皮の緩んだ音ですが、大変良く弦が響き、サステインが効いてます。

当時は今よりずっと音楽資料も無く、学校も行かなかったであろう彼はどうやって音感やリズム感が養えたのでしょうか。
そんか彼はラジオで洋楽を熱心に聴いていたそうです。
じつは新しいもの好きだったのかもしれません。

さらには長唄などの邦楽三味線も良く聴いたに違いありませんし、
当時流行した浪曲だって、何だって聴こえて来るものを貪欲に聴いて吸収したのでしょう...。
その三味線の音は、時には激しく、切なくて、さらに妖しさ(怪しさ)まであり、狂気すら感じます。決して奇麗なだけではありません。

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やがて、1人の少年が軍八郎の居た巡業一座である陸奥の家(むつのや)演芸団に入って来ました。
彼はその後に国民的大スターとなるのです...(まだまだ続く、不定期)



今回の参考文献

大條和雄『津軽三味線の誕生』

松木宏康『邦楽ジャーナル連載・津軽三味線まんだら』

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