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偉人列伝 その4『汝の三味線を弾け!仁太坊(ニタボウ)』


津軽三味線はある1人の男によって誕生したと云われています。

一昔前の津軽地方では、男性の盲人が門付けをする者のことを坊様(ボサマ)、乞人(ホイド)、ジャド、または座頭の坊と呼んだそうです。ストレートに乱暴な言い方をすると、これら坊様とは、乞食をするもののこと。あるいは乞食芸人などを指し、芸の内容は多岐に渡ります。
盲人の門付け芸人で無くても、芸人と云うだけでも坊様と呼ばれる場合もあります。
津軽三味線は、坊様三味線などと呼ばれていました。

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2007年、五所川原市金木町神原に建てられた、仁太坊生誕150周年記念碑

現在の青森県五所川原市金木町神原、岩木川の河原に生まれた仁太坊こと、秋元仁太郎(1857〜1928)は津軽三味線の生みの親であると云われています。
津軽三味線の基礎を築いた功労者にも関わらず、世に認められずこの世を去りました。

八歳の時に疱瘡にかかり生死をさまよい、失明してしまいます。
母親は仁太坊を産み、まもなく他界。父は岩木川の船渡し守りで、仁太坊が十五歳の時に事故により水死、仁太坊は天涯孤独となります。そして、生きて行く為に彼は坊様となり、門付けをし、その日の糧を求めて三味線を弾き歩きました。


仁太坊と津軽三味線のルーツ解明は、1980年代に大條和雄先生によって発表されました。
大條先生の仁太坊については『弦魂津軽三味線』(合同出版)『津軽三味線の誕生』(新曜社)などで読むことができますが、『金木今昔物語・著/白川兼五郎』(自家版・昭和56年)こちらでも神原の仁太坊について書かれてます。

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驚くことに、著者の白川兼五郎氏は、実際に仁太坊の芸を見ているそうです。

自分で見聞きしたエピソードや、氏の父親から聞いた話、昔話しを良く知る知人から聞いた話をまとめています。

『金木今昔物語』によりますと、意外にも仁太坊は家々の軒先を廻る門付けはめったにしなかったそうです。ただの物乞いはしないとのポリシーが強く、毎日のように街の盛り場や茶屋、居酒屋などで、旅の人を相手に芸を売ったそうです。

出掛ける時はバサマ(女房)の『まん』といつも一緒。まんは手引きの六尺棒と太鼓を手に持ち、盲目の仁太坊を手引きします。

仁太坊は、背中に佐々木小次郎の長刀のように太棹の三味線を背負い、腰には横笛と尺八を差して手引きの六尺棒につかまり歩いたそうです。

芸風は、津軽三味線のソロ演奏と云うよりも、八人分の芸を披露する八人芸(はちにんげい)。
唄うと云うよりは唄を語るような口説き節風のもの。三味線や尺八などを用いて唸り上げます。じょんがら、よされ、おはらもみんな入っていて、熱が入るとナンジョ(謎かけ)から祭文までやる芸達者ぶり。

叩き奏法を自ら編み出し、弾くと云うよりビュンビュン!と叩く、あらん限りの芸を取り混ぜ、聴衆をひとのみにしてしまい、あたりを圧したそうです!神原から金木の盛り場まで、いつも同じ道を妻の手引きで歩きます。

また、大條先生の『弦魂津軽三味線』『津軽三味線の誕生』によりますと、仁太坊の元には三味線や八人芸などを教わりに来た弟子達がいました。

弟子達に三味線を教える時に強く伝えたのは芸心、芸哲学。
「人真似は猿でもできる、汝の三味線弾け!」と、教えたそうです。

やがて、その弟子達が、芸の個性を多彩に広げて行きます。

続く...。

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