<< 前の記事      [ブログの一覧に戻る]      次の記事 >>
偉人列伝 その6『津軽三味線のルーツとスピリットを掘り起こした人』


津軽三味線を始めた人は『神原の仁太坊』と云われたのが今から25年ほど前のこと。
現在、津軽三味線は日本の芸能の一つとして、日本はもとより、世界的にも知られるようになりました。明治以降に誕生し、伝統芸能とはまだまだ呼べ無い歴史が短い芸能。
しかし、その歴史は闇に包まれていました。

青森県弘前市の作家であり、歴史研究家の大條和雄先生が、地元で三味線の門付けの経験のある方々や芸人を訪ねて調べ歩き、誰から三味線を習ったのかを辿って行くと、すべて仁太坊の直弟子達に行き着いたそうで、津軽三味線のルーツ解明に取り掛かりました。

初めは小説の題材にでもならないかと津軽三味線に感心を持ち、坊様三味線の経験者や、津軽民謡の芸人達、地元の古老などを訪ねてはメモ書きから始め、津軽の当道座や藩日記なども調べ始めたそうです。しかし、坊様のこと、津軽三味線と云う呼称は、どの古い文献にも見当たらなかったそうで、調べる必要があると志します。

話は逸れますが、私がネットで手に入れた、昭和26年発行の『東北民謡物語』(著者・武田忠一郎/発行・フジヤ書店)の中で「津輕物」の項目で三味線の伴奏について武田氏はこう書かれています。

「おそらく、ここでは、嘉瀬の桃太郎という人が弾きはじめ...」と記されています。
仁太坊の弟子の桃ですが、桃よりも前の時代の芸人や兄弟子達は省かれています。
昭和30年代以降の発売のLPやEP盤のライナーには、津軽三味線は嘉瀬の桃が始めたと多く書かれています。

Dai38-1.jpg

本格的に取材を始め、訪ね歩きだしたのが昭和34年。しかし、取材は困難を極めます。
取材先では胸ぐらを掴まれたり、打ち水の水をかけられたり、塩をまかれたりしたそうですが、それは何故なのか。

門付け芸人の坊様は芸をする替わりに物を貰って歩く乞食(ホイド)、社会的に地位の低い存在。
筋目悪き者とレッテルを貼られ差別されて来た歴史があったからでした。
身内のものが失明して門付けをして坊様になることは不名誉なことであり、他人の家のことならまだしも、自分の家から坊様が出ることは家柄に傷がつくと云うことになり、中には子供が失明すれば坊様に預けてしまい、そのまま離縁してしまう場合もあったそうです。

人の家の知られたくない過去を掘り返し、傷に塩を塗るような真似をするな!と追い返されたこともしばしば。趣旨を説明して説得し、取材を続けます。

Dai38-2.jpg

現在の津軽三味線があるのは坊様がいたからこそと、不当な扱いを受ける坊様達の名誉回復の為に闇の歴史に光を当て、取材を続けて行きます。
しかし、人の家のプライバシーに触れることへの心の葛藤もあります。

そして、昭和58年に『弦魂津軽三味線』を陸奥新報に連載し、津軽三味線のルーツと、仁太坊が津軽三味線の始祖と発表。翌年には合同出版より同タイトルの単行本発行。津軽三味線初の歴史専門書。

さらに『津軽三味線の誕生』(新曜社・1994年発行)で具体的に、時代背景や津軽藩の当道座などの歴史を交えて解説されてます。仁太坊が瞽女や様々な芸能から影響を受け、混ぜ合わせて独自の芸を編み出して行く様が紹介されてます。
そして、高橋竹山のように有名にはならなかった名人達のことも多数記されています。

今日、津軽三味線の歴史について多く知ることができるのも大條先生の血の滲むような取材、努力のおかげです。神原の仁太坊が始祖では無いのでは?と反論も聞かれます。誰が始めたか、定義は様々ですので私にもわかりません。しかし、仁太坊が始祖で無かったとしても、仁太坊の芸哲学が様々な芸人達を生み、さらに白川軍八郎を始めとする個性豊かな三味線弾きを生み、現在の津軽三味線の生成を知れることは大変な価値があります。
そして、実証的な裏付けをされたこともこれから未来に向けて非常に重要なことです。

津軽三味線がこれからも益々奏者によるカラーの違いを拡げ、聴くも良し、弾くも良し、と楽しまれることを願って止みません。

カテゴリ:

page top