特別展アーカイブ

藍きもの〜美しいはたらき着〜展

麻と毛糸のハイファッション・美しい手仕事展

貧しい農民の「野良着」「はたらき着」などというと、現代の我々はついつい「汚れてもいい作業着」だと思い込んでしまうが、当時の農村での野良着とは、単なる作業着ではなく、人が集まる仕事場に着ていく衣類でもあるので、現代でいうOLのオフィスへの通勤着や、ビジネスマンのスーツに近い感覚の衣類だった。

特に、男性同様に畑仕事などの労働を行っていた若い女性にとって、野良着はパーティーウェア(晴れ着)ではないものの、人前にでるときに着る、人が集まるところへ着ていく衣類だったので、決して単なるワークウェアではなく、美しくありたいと精一杯の工夫を凝らした装いでもあった。

もちろん最初は晴れ着として使っていた衣類が、長年着用するうちに普段使いになり、屋内着や仕事着になっていった場合もある。晴れ着の傷んだ部分はつぎあてされ補強され、新たな柄合わせの妙をみせた。また傷んだ袖部分は切り取られベスト型の屋内着「ソデナシ」として続けて愛用された。切り取られた袖は他の衣類のつぎあて布として、また傷んでほつれた糸はサキオリの技術で機織り機にかけられ、新たな衣類としての命を与えられた。

藍は布を強くする効果をもっていること、色持ちがよく使い込むほどに色が冴えてくること、虫よけや解毒作用をもつことなどから、はたらき着に欠かせない染料だった。昭和初期頃までの農村部では、地域により藍の濃淡の違いはあれど、みなこぞって藍染めの衣類を身につけた。自ら麻を植え、糸を紡ぎ、機織り機で布を織った女性たちにとっても、そうした布を家庭で藍染めするのは特に困難な作業で、紺屋(藍染め屋)に出すことも多かった。

藍は高級品で、大正時代〜昭和初期の東北地方では米1俵(約60kg)が5円の頃に、1反(幅約34cmの場合、長さ約10m。1人分の衣類の布に相当)の布を、浅葱色(淡い水色)に染める代金が60銭(0.6円)もした。高価な染め賃は家計への負担が大きかったので、冬に織りあがった麻布を紺屋に持ち込んだ場合も、
その年の秋の収穫期に米や大豆や小豆など穀類でまとめて支払うことが多かった。また染めてもらうには早くて10日、時間がかかる場合は1ヵ月以上も待たされた。

しかし貧しい暮らしの中、そう頻繁に染めに出せるわけでもない。だから農村部では各自の家でも染めていた。専用の藍染め小屋のある紺屋とは違い、各家庭では一度に多量の染色ができない。そのため一度ごとは淡く染め、それを幾度も幾度も染め重ねて濃紺に染め上げた。また衣類にシミや汚れが目立つようになった場合も、藍で何度も染め直して使い続けた。大変な手間のかかる作業であったが、この作業も各家庭での女性たちの仕事だった。

濃紺に染め上げたのは津軽地方、淡い浅葱色の染めを好んだのは太平洋側の南部地方と、それぞれ固有の風土的美意識がみてとれるが、藍染めの麻布に補強・保温・装飾を兼ねる、技を凝らした刺し子を施したことは雪国青森の衣類に共通している。

屋内着・野良着の用を問わず、一様に美しいはたらき着が残されている。そんなに昔のことではない。かつての日本の豊かではない暮らしの中、手に入るものを最大限工夫して、美しくありたい、健康でありたい、と願った想いが、これら美しいはたらき着に残されている。江戸や京都の専門工芸職人の仕事ではない、これら一般女性の技術と想いをご覧ください。

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